UKULELE SIGHT/COBA STUDIO
「 カイロの紫のバラ 」

Uke cinema World  COBA カイロの紫のバラ 1985 cinema
THE  PURPLE  ROSE  OF  CAIRO THE  PURPLE  ROSE  OF  CAIRO
原   題 「THE PURPLE ROSE OF CAIRO」 1985年米映画
監督・脚本 ウディー・アレン
出   演 ミア・ファーロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、エド・ハーマン、
ダイアン・ウイースト
音   楽 ディック・ハイマン
映 画 賞 カンヌ映画祭国際批評家(連盟)賞

ウディー・アレンは、最近、自分を特別視する凡人ばかりの世の中において、衆人が認める奇才を放つ監督 です。
1935年NY出身、ユダヤ人家庭に育つ。 NY大学卒業後コメディアンとしてTV、舞台で活動。1965年「何かいいことないかな子猫チャン」で脚本兼出演し、1969年「泥棒野郎」監督デビュー。 1977年「アニー・ホール」でアカデミー作品賞・監督賞を受賞。自ら出演する映画のほとんどは自ら監督をする。以後アメリカの代表的映画監督として活躍。(参考出典:シネマクラブ)

“都市生活者ウディ・アレン”は、社会的には少数派のユダヤ人という生い立ちと、背が低く、眼鏡をかけ、見栄えのしない容貌という大きなマイナス要因をバネに、持ち前のクールな感覚と明晰な批判精神で人間描写 には定評があります。しかし、簡潔な勧善懲悪娯楽映画とは違い評価はいろいろで、名前を聞いたことはあるが作品はほとんど見たことがないという方も多いのではないでしょうか。この他、音楽にも造詣が深く、映画にもジャズを取り入れていますが、ウディー・アレン自身は、1970年代前半からマンハッタンのジャズ・クラブ「マイケルズ・パブ」にクラリネット奏者として出演しているそうです、演奏曲はすべてニューオリンズ・ジャズ。アカデミー賞授賞式に欠席し、ステージで演奏をしていたという逸話もあります。

「 カイロの紫のバラ」の意味 ?
映画タイトルの「 カイロの紫のバラ」は、劇中に主人公(ミア・ファーロー)が観ている映画のタイトルでもあります。
この言い伝えが本当にあるのかは定かではありませんが、カイロ(エジプト)のファラオがお妃に贈った薔薇が墓の中で咲く「紫の薔薇」を探しに来た探検家が 登場してきます。
  西欧に於いて薔薇は大変珍重された花で、競って、その品種改良に取り組んできました。今でも「青い花の薔薇」が生み出せれば大変な富を得ると言われ、最近では青に限りなく近いものが生まれているようです。しかし、「風邪薬の特効薬を発明すればノーベル賞がもらえる」といわれているのと同様、青い薔薇の生産は大変難しいようです。 そのために映画のタイトルとして花の種類としても「薔薇」が選ばれたのかもしれません。そのことは、この作品の幻想的ストーリーに対する伏線とも感じます。

ここでも映画の内容は語りませんが、この映画で使われたアイデアが、過去のある記憶を蘇らせました。

1980年頃、東京の山の手教会地下の「じゃん・じゃん」という劇場で、寺山修司さんのトーク付きナイト上映を観ました。映像は3日間に渡り日替わりで上映され、寺山さんの語りと伴にこれまでの作品を通 してシュールリアリスム映像(演劇)作家としての「寺山修司の世界」を垣間見ることが出来ました。氏もまた、衆人が認める多彩 な奇才 です。その中で、映画上映後、 スクリーンから寺山修司氏自身が飛び出してきてトークが始まりたいへん驚かされました。今まで映像が投影されていたのは「白いゴムの帯を縦に張りつめたスクリーン」でした。このような手法は1971年映画「ローラ」によって観ていた観客(もちろんその作品のために仕込まれた役者)や映画の主人公が客席とスクリーンの間を行き来する寺山修司氏の実験映画として使われていた手法のようです。

ウディーアレン(1935〜)と寺山修司(1935〜1983)
一見 関連の無さそうな二人の奇人は、明晰な批判的精神によって全く異なった作風でありながら、実は同じものを求めているように感じています。おもしろいことに、同じ年の生まれで、しかもそれぞれの出生地は、「ニューヨーク」緯度40度43分、「青森県」緯度40度49分、偶然でしょうか?。
  片方は、「確からしさ」を求めて、片方は「確からしさ」を破壊することによって、両者は目的や手法こそ違えども、共に自らのアイデンティティーを追求しているのではないでしょうか。

「鬼のふんどしを洗う女」 という逸話があります。

ある時、仲の良い若い夫婦が野良仕事をしていました。そこへ「鬼」がやって来ます。 (出典によっては赤鬼であったり、青鬼であったりします)  鬼は、女房をさらって疾風のごとく逃げ去ってしまいました。男は後を追います。鬼の姿を見失った後も女房を捜すため何年も何年もあてどもなく探し続けます。そしてついに、遠く離れた山奥の河原で鬼のふんどしを洗っている我が女房を見つけだします。しかし、女房は、鎖で繋がれているふうでも無く、近くで鬼が見張っている様子もありません。女房は逃げ出そうと思えば簡単に逃げ出せる状況でした。
それを見た男は、結局、女房に声を掛けることなくひとり山を下りたそうです。

この話の解釈は各自お任せいたしますが、通説としては、男のロマンティシズムと女の現実への順応性に対しての引き合いに出されます。この女房や探し求めた男の自我、幸せのあり方、男と女、人間の本質をどう捉えていくかという点で、ウディーアレンの映画では、まさに「鬼のふんどしを洗う女」を見る思いがし、寺山修司の映画では、もしかしたら自分が「鬼のふんどしを洗う女」かもしれないという思いを抱かせます。

 

「 カイロの紫のバラ 」 ウクレレに関して、

普通、ウクレレの弦の張り方は、ヘッドに正対して見て、内側から外側に向かって巻き上げていきます。 しかし、何故だか分かりませんが、マーチンに関しては、逆に外側から内側に向かって巻き上げるのが特徴です。作品中のウクレレの弦の巻き方や、はっきりとは見えませんがヘッドの「ロゴ」などから、「Martin Style-0」 のように思います。ヘッド表面にロゴがあるということは、映画製作1985年当時の現行品に近い時代のものではないでしょうか。
 マリリン・モンローの映画「お熱いのがお好き」と同じで、女優ミア・ファーローのストロークが速いのに驚かされます。当時の流行なのか、アメリカ人のウクレレに対する認識がそうさせるのか、いずれにしてもハワイの民族楽器としての扱われ方とは良い意味で全く異なっています。

ウクレレはこの映画の中では、重要なアイテムとしての役割があり、しかも主人公のウクレレに対する思いや取り扱い方にその心情やある意味での生き方が明確に表現される小道具となっています。

シュールリアリスム&カンヌ映画祭 用語集参照下さい。

2000/06/01



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